御台本

御台本 - Written by oda

月の欠片 - Once in the Blue Moon -
【登場人物】 【●性別】 【登場人物の概要】
神崎幸人 男性 神崎幸人(かんざきゆきと)は椅子の背にかけていた背広を羽織った。
遠坂紫織 女性 遠坂紫織(とおさかしおり)はそんな自分を置き去りにして、その人にだけ、邑崎(むらさき)と名乗った。

あらすじ

久しぶりに月を見上げた、そんな気がした。

月の欠片 - Once in the Blue Moon -

――久しぶりに月を見上げた、そんな気がした。


  『 月の欠片 』


◆#01 神崎幸人

 神崎幸人(かんざきゆきと)は椅子の背にかけていた背広を羽織った。
 夕暮れ営業先から戻った頃、地下鉄の昇り階段の先の地面が濡れていたのを思い出しながら、オフィスから出る頃には肌寒いだろうと見当をつけた。
 事務所のカレンダーがいつの間にか9月になって、夏物もその季節の終わりを迎え始めたのを実感する。衣替えで片付け忘れた半袖のシャツのように、神崎だけが事務所に残っていた。
 事務所の照明を消し、セキュリティスイッチを押した。
 ふと、真っ暗なデスクの上で、スマホの画面が明るくなった。
 
 ――今夜は、月が大きく出ていますね。
 
 ブラインドの隙間から、都会の空を見上げた。
 いくつも突き立ったビルの合間の小さな空から、少しだけ欠けた大きな月がこちらを見ていた。
 神崎はスマホの向こうにつながったメッセージの主に、言葉を送った。
 
 ――少しだけ欠けて見えるのは、僕だけですか?
 

◆#02 遠坂紫織

 “電車”というより、“列車”という響きの方が好きなのだけど。だけど、そういうことにこだわろうとする自分のことがちょっとだけ小さく思えて嫌いになる。
 遠坂紫織(とおさかしおり)はそんな自分を置き去りにして、その人にだけ、邑崎(むらさき)と名乗った。
 
 邑崎は、電車という表記も、列車という表記も気にしない。
 好きな食べ物は、お米と答えて、お味噌汁をつけてね。と加筆する。
 邑崎は、会計処理を忘れた社員が提出する2か月前のレシートとは一切無縁だし、満員電車の汗臭さも知らない、突然の雨に濡れて帰宅することもありえない。
 邑崎は、外の世界をぼんやりと眺め、それをすべて受け入れる。『人間社会は大変なのだ』という感情をぶつけられたら、大変なんだねと、風の吹くままに揺れている。
 
 遠坂紫織の指先を借りて、街灯の下で自ら光る小さな液晶の上に文字を躍らせる。
 ふと、街灯の向こうで弱々しく光る小さな月を見上げた。
 紫織の目の中に映るその月を見つけて、邑崎が送るのだ。
 
 ――今夜は、月が大きく出ていますね。
 

◆#03 神崎幸人

 その人は、神崎に向けて、数行のメッセージを送ってくる。
 1行の日もあれば、3行の日もある。けれど、決して往復の3通目は来ない。
 2通目はいつも、神崎が返したあと、
 
 ――おやすみなさい
 
 それか、
 
 ――体に気を付けてね
 
 と、追記するだけだ。
 
 だから、神崎も、詩のようなその言葉の空気感を楽しみながら、短く返すのだ。
 その日も何の前触れもなく、けれど、少しだけ優しさを包み込んだ言葉が届いた。
 彼、なのか、彼女なのか。
 ただ、わかるのは、――邑崎――というその名だけだった。
 

◆#04 遠坂紫織

 ――少しだけ欠けて見えるのは、僕だけですか?
 
 その問いかけに、紫織は手のひらサイズの液晶画面を胸に押し当てた。
 ひとつだけ、決めていた。
 これ以上、近づかないと。
 その決意を込めて、――邑崎―― と、名乗ったのは紫織だった。
 紫織は自らの意識の中で、邑崎を押し留める。
 けれど、邑崎の1行が重なるにつれ、その決心が喉の奥から揺らぎはじめる。
 紫織は、――ユキト―― という名の光る液晶画面に指で触れた。
 
 ――あなたは、今、どこにいるのですか?
 
 今夜もまた、紫織の抱いたその問いを書いて、消し、邑崎が代筆をつとめる。
 
 ――少し冷えますね、お身体ご自愛ください。  

◆#05 神崎幸人

 財布の中を整理していたら、6月と書かれたレシートが出てきた。
 それはそれで構わないのだが、カレンダーが9月になっていた。
 神崎は、ダメもとで、会計担当の女性に尋ねた、名前は何と言ったっけ?この春に転属してきて、自己紹介をしていたが、何人もいる慌ただしい4月にそこまで覚えていない。
 「あのぉ、すんません、これ、もうだめですかね?」
 神崎はレシートの消えかけた6月17日の日付を指さして言った。
 会計担当の女性社員は、目も合わせずレシートを一瞥すると、「かまいませんのでこちらに部署とお名前を書いてください」とだけ言い、ちいさなメモ用紙を差し出した。
 神崎はほっと胸を撫で下ろし、癖で左胸のポケットにあるはずのボールペンを探した。
 
 ――しまった、デスクに置いてきた。
 
 会計担当の女性社員は、無言で自らのボールペンを差し出した。
 神崎は、胸に『遠坂』と名札を付けたその女性に借りたそのボールペンで所属と氏名を書き、メモ用紙を差し出すと、会計担当の席を後にした。
 ズボンのポケットに入れたスマホが鳴り始める。
 営業先からの呼び出しで、神崎の日常が今日も始まっていく。

◆#06 遠坂紫織

 どこで無くしたのか見当がつかなかった。
 昨晩、デスクを片付けた時にはあったのだ。
 今日、どこかに持ち出したかと言われたら、答えはNOだ。
 紫織は、今日一日、デスクと、この給湯室にしか立ち寄っていなかった。
 お気に入りの澄んだ紫色のボールペン。名前など書いていないから、戻ってくるはずもない。
 給湯室で深くため息をついた。
 空っぽになった給湯ポットの仕事が終わるまで、何分かかるのだろうか。
 昼休憩の残り時間とにらめっこしながら、紫織の自由時間が奪われていく。
 ポケットからスマートフォンを取り出して、メッセージアプリを立ち上げた。
 
 ――少しだけ欠けて見えるのは、僕だけですか?  
 その言葉の向こうで、昨晩のうちに沈んだはずの月がこちらを見ている気がした。
 邑崎になって笑うのだ。
 
 ――紫織はそんなちっぽけなことにすら、悲しい顔をしてしまうのね――と。  
 だから、送ってみる。私は、邑崎なのだから。
 
 ――欠けてしまった月はどこへ行くのでしょうね?
 

◆#07 神崎幸人

 なんだ、今日の営業成績は。
 自分自身に対して苛立ちを隠せなかった。
 結果は惨敗。
 ほんのわずかな見積りのミスが、致命的な結果を誘発した。
 リカバーできる範囲だった。
 けれど、結果で言うと、他社に根こそぎ持って行かれた。
 なんだ、今日の俺は。なんなんだ、今日の神崎幸人は。
 最低だった。
 最低だったのだが、ミスを犯したのが、2か月前の自分だったから、余計に苛立つのだ。
 財布の中に残っていたレシートは、何かの予兆だったのか。
 唯一救われたのは、営業先の会社の女性に、紫色のボールペンを誉められたことだけだった。
 課長にどんな顔して頭を下げれば良いのだろうか。
 事務所に戻る勇気が無くて、その扉の前で踵を返し、給湯室に寄った。
 
 ――コーヒーでも飲んでいこう。
 

◆#08 遠坂紫織

 給湯ポットが仕事を終えてくれないので、空っぽになっていたコーヒーメーカーを洗っていた。
 誰かが朝一番にコーヒーを大量に仕掛けて、それを誰かが次々奪っていって、こうして誰かが拭うのだ。
 その役回りに紫織は自分で適材適所だと感じていた。
 確かにそれは仕事ではないが、自分の悪運の強さを給湯ポットが表しているし、空っぽのコーヒーメーカーがそれを体現していた。
 給湯ポットはまだ、オレンジ色に点滅していた。
 その時、大きなため息が入ってきた。
 営業部の、誰か、だ。
 コーヒーメーカーが居座っているはずの場所を見つけて、「まじか」と弱々しく吐き出すと、紫織に気づいた。
 「あの、コーヒー終わっちゃいました?」
 そう尋ねられたので、紫織は言った。
 「いま、ちょうど無くなったところで、つくればありますが、」
 そう言うと、男は、「自分でやります」と頭を下げたものの、様々なものの場所がわからず、後頭部を掻きはじめた。
 紫織は給湯室の隅っこでその様子を見ていたが、いてもたってもいられず、
 「コーヒー豆と、フィルターの場所がわかりませんか?」と声をかけると、男はあっさり「すみません」と頭を下げた。
 紫織は「午後から、また誰か飲むと思いますので」と前置きをして、定量でいつもの分だけつくりはじめた。
 豆の分量と、水の量にこだわりがあった。
 8人分を目安につくるなら、豆は8杯、水は9杯分。
 このコーヒーメーカーは少しばかり蒸発が早い。だから、なんとなく、そうやって、つくっていた。
 スイッチを入れると、コーヒーメーカーはにぎやかに仕事を始める。まるで営業部隊の一員のようだ。
 男がその音を見ながら言った。
 「今日、ついてなくて、営業先でも失敗するし、地下鉄も乗り遅れるし、違うの乗るし、まぁ、戻ってくるときだったからいいんだけど、会社に戻ってきたら、コーヒー無いし。いつもなみなみ売れ残ってるのにね」
 男は笑顔を作っていた。営業部の人間は笑顔をつくるのがうまい。
 けれど、給湯室で見せるそれは、少しだけ疲れの色が滲んで見えた。
 紫織は、自分の弁当袋から、小分けの味噌汁を取り出すと、少し大きめの紙コップに用意した。
 先ほどきれいに片付いたシンクの横に、コップが2つ並んだ。
 コーヒーメーカーが湯気を上げ始めるころ、給湯ポットが仕事を終えた。
 誇らしそうに、メロディを奏でる。
 紫織は、余計かと思ったが、何も聞かずに、湯で溶いた味噌汁の入った紙コップと予備の割り箸を差出した。
 「もしよかったら、」
 紫織の差し出した紙コップに恐縮しながら、けれど、男はうれしそうにひとくちやった。
 「あーーーーーーーーーーーーしみる、今日はやっぱり、いい日かもしれない」
 「大げさですよ」
 思わず二人そろって笑っていた。
 

◆#09 神崎幸人

 給湯室で味噌汁をくれた女性が、会計担当のあの無言で冷徹な女性だと一致するまで時間がかかった。
 コーヒーができるまで待っていてくれたのは、たぶん、ミルクのポーションの位置も、砂糖の位置も、コーヒー用のプラスチックのコップもなにもかもわからない自分がそこにいたからなのだと気付いたのは、胸のボールペンの事を思い出してからだった。
 コーヒーをコップに注いでもらって、ついでに、ミルクも砂糖も入れてもらって、かき混ぜてもらって。
 なんだか至れり尽くせりで特別で、イレギュラーなレギュラーコーヒ―を味わっていた。
 「あぁ、そういえば、ボールペン、借りたままでした、遠坂さん」
 名札をできるだけ見ないで名前を言うのは、営業職について、いつの間にか身に着けた小技だった。
 「え?いつ?」
 「今朝、あの、6月のレシートを持って行ったときに……だと思います」
 遠坂というその女性は「ありがとうございます」と言った。ありがとうはこちらなのに。
 「探していたんです、無くしたかと思っちゃった」
 「お借りしていました、」
 「でも、今日は、ついてないんでしょ?そのボールペンの所為じゃ?」
 「いえいえ、誉められました。良い色のボールペンだって。どこで買ったんですか?」
 「どこで買ったか忘れちゃいました」
 「どこで買ったか思い出したら、教えてください」
 遠坂さんは「はい、わかりました」と笑顔を残して給湯室を出て行った。
 コーヒーがいつもより美味い。
 美味いのは、コーヒーの所為なのか、ストレスから少しだけ救われたからなのか。
 コーヒーを飲みながら、スマホを眺めた。
 メッセージが1件来ていた。
 
 ――欠けてしまった月はどこへ行くのでしょうね?
 
 見上げた給湯室の天井で真円を描いた照明器具が月よりも眩しく光っている。
 
 どこへ行くのだろう?
 
 その詩の問いかけに、コーヒーの香りを頼りに答えを探る。
 
 ――欠けてしまった月は、
 
 ふと、シンクの脇にちいさなハンカチが置いてあった。
 見えた角に、『紫織』の文字が刺繍してあった。
 もしかしたら、遠坂さんのものかもしれない、し、違うかもしれない。
 遠坂紫織、なのかもしれない、し、違うかもしれない。
 ふとイメージの中で、丘に留まった月が欠けて、深い紫色の空から、その欠片が転がってきた。
 
 ――欠けてしまった月は、どこかに転がって、案外近くに落ちているかもしれません。
 
 コーヒーの良い香りがする。  給湯室のこの狭い空間いっぱいに満ちている。
 再度、自分が送信するメッセージを確認した。
 送信するのと同時に、遠坂さんが給湯室に戻ってきた。
 「そこに、ハンカチ落ちてませんか?」
 そのとき、遠坂さんのスマートフォンが汎用品のメッセージを受信した音を奏でた。
 神崎は、その音のリズムに、ちいさな違和感を感じていた。
 

◆#10 遠坂紫織

 デスクに戻ると、レシートの処理をひとつ見逃していた。
 今朝の日付と、6月のレシート。
 慌ただしい朝の時間に縛られて、ボールペンを渡したことにすら気づかなった。
 営業課 カンザキユキト
 手元の小さな機械に送られてきたメッセージが小さな灯を宿した。
 
 ――少しだけ欠けて見えるのは、僕だけですか? ユキト――
 
 その時、給湯室にハンカチを忘れていたことを思い出した。
 

◆#11 神崎幸人

 「紫織、って言うんですか?」
 ハンカチを取りに戻ってきた遠坂に神崎は尋ねた。
 遠坂紫織は、何も言わずにハンカチを手に取ると、手元に目を落としたまま言った。
 「お昼休みに来たメッセージって、お昼休みのうちに返した方がいいですかね?」
 神崎はその問いに、「相手も社会人なら、その方が返事をもらいやすいかも、ですね」
 
 ――欠けてしまった月は、どこかに転がって、案外近くに落ちているかもしれません。
 
 神崎の手元で、スマホがメッセージを受け取った。
 
 ――もし、その欠片がここにあるなら、私が邑崎です。
 
 神崎は目を上げた。
 遠坂はその手にハンカチと、スマートフォンを握りしめている。
 
 「もしかして、邑崎さん、ですか?」
 
 遠坂は頷いた。
 
 遠坂が尋ねる。
 「ユキトさん、だったんですね」
 神崎が頷いた。
 
 「神崎さん、すみません、お忙しいのに、変なメッセージ送っちゃって、この半年間」
 
 「いえ、ありがとうございます。邑崎さんの、いや、遠坂さんの言葉に何度救われたか」
 
 「ごめんなさい、本名じゃなくて」
 
 「紫織さんだから、だったんですね」
 
 遠坂はひとつ頷いた。
 
 神崎が言った。
 「また、メッセージいただけますか?」
 
 「また、送ってもいいですか?」
 
 神崎はその言葉を受け取ると、「こちらからも送ります、必ず」と微笑んだ。
 
 遠坂は、俯いて、心臓の打ち鳴らす鼓動の響きに急かされるように給湯室を飛び出した。
 遠坂が自分のデスクに戻ると、休憩が終わる鐘の音が鳴った。
 それとほぼ同時にメッセージが届いた。
 
 ――言葉選びは苦手ですが、僕からも送ります。 ユキト
 
 
 ――欠けてしまった月は、思ったより近くに転がっていたのですね。 紫織
 
 
 ――月の欠片は、デジタルなメッセージカードになっていたんですね、これからもよろしく。 幸人  
 
 
 
 
  -END-



       『 月の欠片 - Once in the Blue Moon - 』

御台本一覧へ戻る