御台本

御台本 - Written by oda

夏の香りに想いをよせて - Once in the Blue Moon -
【登場人物】 【●性別】 【登場人物の概要】
前島あかね 女性 かき氷が好き。
広川 正 男性 広川 正(ひろかわ ただし)。店番中。

あらすじ

かき氷ほしいんですけど。

夏の香りに想いをよせて - Once in the Blue Moon -

◆#01 前島あかね

 とびきりのデザートってやつ。
 『氷』って描いてある小さな旗。あれを初めて作った人は天才だと思う。
 ここからだと風ではためいて『水』だか『氷』だか判別はできないけど、あのカラーリングはアタシにとってはときめきの色。
 白馬の王子様だってかないやしない。
 もし、白馬の王子様があの旗を持って現れたら、26歳のアタシの乙女心はちょっとは揺らいであげてもいいかもしれない。
 八重野峠のゆるやかな登山道。くねくねとした土の道に、生い茂る緑。
 ちょっとした木陰に、7月の終わりだというのに、まだ紫陽花がかわいらしい淡い水色の花をつける。
 まだつぼみもあるから、8月に入ってもこの場所なら花を咲かせてくれるかもしれない。
 登山道を歩くこと約30分。厳密に言うと42分。見えてきた、峠の中腹にあるちいさな茶屋。
 最後の上り坂をクリアして姿を現したのは、かやぶき屋根の小さな古屋と、その横に、
 ――休憩にどうぞ――
 そう小さな板切れを立ててあるだけの茶屋。外には長椅子が3個。
 端っこがところどころ日に焼けて色あせている赤い布をふんわりとかけてある。
 好く言えば『昔話に出てきそうなおちつき感』。アタシの言葉で言うなら、『ちょうどいいサビレ具合』って感じ。
 こんなへんぴなところに小屋を建てたもんだと感心するけど、砂漠にピラミッドを立てるような意味不明なこともしてしまうのだから、それと比べれば、山には木がたくさんいらっしゃるので、こっちの小屋を建てるほうが簡単だったのかもしれない。
 「ふぃーーーー、つかれたーーーー」 
 赤い布の長椅子に腰を下ろす。リュックを置いて、帽子もはずす。
 山から吹き降ろす風が心地好く駆け抜けた。
 事務職に慣れすぎて、運動不足の足の裏とふくらはぎがジンジンと疲労を訴える。
 「いいじゃない。このためにここまで歩いたんだもの」
 見上げた小屋の壁に、手書きのPOP。間違えた。ポップなんて感じじゃなくて、『札(ふだ)』。しかも、油性マジックで手書き。けど、意外と文字は綺麗。
 メニューはふたつ。
 ――おしるこ(冬季)――
 ――かき氷(夏)――
 なぜ、おしるこが『冬季』なのに、かき氷は『夏』なのか。
 『夏季』と書き記すことに店主のおやじ的自主規制が含まれているのだとしたら、おしるこの方を(冬)にすべきだとアタシは思う。
 けど、そんなことは些細なこと。登山道を約30分。厳密に言うと48分。
 たどり着いた場所。ここのかき氷が食べたくてやってきた。
 「おじさーん、かき氷ください」
 言葉を投げ込んだ。
 小屋の中には確かに人の気配があった。あるはずなのに、返事が無い。
 昨年は確かに居てくれた。
 背中の曲がった白髪もかすかに残ってるくらいのおじいさんが、どこからともなくレンガくらいの大きな氷の塊を持って、「何個か」とも聞かずにガリガリガリガリ。
 大盛り山盛り特別サービス級のモリモリで。
 けど、今日はおじいさんが現れない。
 「すいませーん、だれかいませんかーー?」
 静かな山に、鳥たちのさえずり。
 けど、かすかにテレビの野球中継の音が聞こえる。
 長椅子に置いていたリュックと帽子を手にとって、建物の奥にある勝手口のほうに足を進める。
 テレビ中継の音。やっぱり。4畳半くらいの畳の部屋に、一人、ごろりと横になっていた。
 あのおじいちゃんじゃない?あれ?違う?
 ジャージに白いTシャツ。プロサッカーチームの黄色いタオルを顔にかけていびきをかいて眠っている。
 「……すいませーん」
 アタシの声に反応するのは、残念ながらテレビ中継のアナウンサー。
 ――おっとぉ!これは痛い!デッドボール、バッター起き上がれません!
 こっちの店主も起きやがりません。
 アタシはスニーカーを脱いで、畳にあがる。
 こういうときの対処法。だいたいお父さんも弟も同じ反応をするから、間違いない。
 アタシは四つんばいで静かにテレビに近づいて、野球中継を――プチッ――OFFった。
 その瞬間、
 「ちょっと消すなよ、見てたんだから――え?」
 え?じゃない。
 顔にプロサッカーチームの黄色いタオルをかけてテレビを見てたって言い張るなら、そのほうが ――え? だ。
 もしおっしゃる通り御覧になられていたのなら、それはそれですばらしい才能だと思う。思う存分テレビに出たら良い。
 高校生くらいの男の子。
 身長はアタシより高そうだから、170センチとちょっと。
 寝ぼけた顔して、状況把握に必死だ。ちょっと好みのタイプかもしれない。けど、いびきはかんべん。
 「誰?」と尋ねられて、アタシは言った。
 「あの、かき氷ほしいんですけど」


◆#02 広川正

 野球中継は音だけで充分だ。
 そう言っていたおじいちゃんの理論はつい最近まで理解できなかった。画面を見ていないと何が起きたのかわからない。
 けど、昨日から登山客の来やしないこのオンボロ茶屋。仕込みやらなにやらあると聞いていたけど、氷が無ければ始まらない。
 今日の昼になって、業者から、
 ――ただしくんか、遅くなって悪いけど、おじいちゃんに言っといてくれ。今日の夕方には持っていくよ。
 昨日だと聞いていたから、代わりに来たけど、電話が来たのが今の今。時計の針は2時を回っている。
 看板も置いたし、赤い布も引っ張り出して椅子にかけたし。氷の旗も言いつけどおりに出したのに。氷が来るのが夕方だ。
 氷の旗だけ引っ込めたほうがいいのかなぁ?とか考えながら、テレビをつけた。
 日曜日のデーゲーム。エースの投げ合い。
 おじいちゃん曰く「今日のは動かんゲームだ」というエース対決。
 そのとおり2回まで順調に終わって両チームヒットなし。
 おじいちゃんは、8月以降の木曜日が面白いと言っていた。
 なぜかと聞いたら、火曜日からの3連戦、エースが出尽くしたあとで3番手4番手が出てくるからだと言う。
 さらに木曜日は夏休みでも無ければ球場へ客入りも良くない。
 8月ともなればだいたいの力関係が固まって、優勝争いが無くなった下位チームは来年のために若い戦力を使い出す。
 ボカスカ打たれる乱打戦。思わぬ若手投手が奪三振。ドラフト下位の新人野手が猛打賞。
 おじいちゃん曰く「そういう動くゲームがわしゃ好きだ」と。
 音だけで野球を聴いて。定期的に入る同じCMのリズムに誘われていつの間にか眠気に襲われていた。
 いくつもいくつもあがってくるあくび。
 山から吹き降ろしてくる心地好い風。
 淡々としゃべる解説者。
 最高の短期アルバイト。夕方に山を降りれば、ばあちゃんのつくった大根おろしたっぷりの厚揚げ豆腐に、ほくほくの肉じゃが。
 おいしそうな湯気と香りが立ち上る。柔らかめに炊いた麦ごはん。
 最高な夢の映像が突然消えた。音が消えた。なんだよ、姉ちゃん、勝手なことすんなよ。
 「ちょっと消すなよ、見てたんだから――え?」
 目の前に同い年くらいの女子が居た。
 ジーンズにTシャツ。首から黄色いタオル。世界一有名な黄色い熊のキャラクター。
 たぶん、隣町の女子高とかにいそうな感じ。背が低くて。制服のスカートとかぜったい短くしない感じ。
 したいけどしない感じか。ソフトテニス部か、吹奏楽部にいそうな感じ。
 なんか頭ぼさぼさで額に汗。ぱっつんに切った前髪がぺったり張り付いてる。
 けど、目が二重で大きい感じがした。ちょっと好みのタイプかもしれない。けど、年下はかんべん。
 テレビのスイッチを切って真直ぐ居直った。
 その女子は正座。じっと目が合う。
 「誰?」
 俺の問いかけに、その女子はまばたきひとつせずに言った。
 「かき氷ほしいんですけど」
 寝起きで状況が掴めなかったけど、『誰ですか?』という質問に、『かき氷が欲しい』という直球な自己紹介は俺の17年間の人生で初めてだった。


◆#03 前島あかね

 その男の子はめんどくさそうに、「あぁ、お客さんか」と言った。
 そして、私の方に向かって正座し直して、両手を高々と上げると、重力に任せる感じで土下座した。
 アッラーの神の方向なんて考えもせず、アタシに向かって畳に額をくっつけ言った。
 「もうしわけござーーませーん。かき氷は昨年の夏で売り切れました」
 そう言うと、こらえていたあくびを目いっぱい搾り出すように、猫みたいに丸まって背伸びした。
 土下座なんかじゃない、猫背伸びだコレ。
 アタシはその言葉を反芻した。頭の中で書道の先生がデカデカと太い文字で記し始める。
 ―― かき氷 売り切れ ――
 「なーーーーーんでーーーーーー!」
 「なんでって、もう無いし。見てみる?」
 そう言うと男の子は黄色いタオルを首にかけて畳を降りると、下駄を履いた。
 「荷物、とりあえず置いといていいから」
 男の子にそう言われ、リュックと帽子をテレビの前に置いた。
 土間を歩く下駄のカランコロンっていう音がなんかかわいい。久しぶりに聞いた懐かしい音を追いかける。
 業務用の意外と大きな冷凍庫がある。
 小さな小屋の成分でいうと4畳半の部屋と、ちょっとした台所と家庭用の冷蔵庫。
 そしてその家庭用の2倍はある冷凍庫。シルバーのきらきらしたヤツ。電源は入っていて、だけど。
 「だろ?カラッポなんだよ」
 シルバーの冷凍庫を言われるままに開けてみた。
 カラッポなんだよ。って何でしょう?なんで?いったい何の意味があるんでしょうか?なんで?こんな山奥の小さな茶屋で、大きな冷凍庫を?なんで?カラッポのまま動かすことに、なんで?どのような哲学をお持ちなのでしょうか?
 「なんで?」
 私が尋ねると、なぜか彼が一瞬笑った。
 「なんで?って、無いから。氷が」
 「じゃあ、かき氷は?」
 「売り切れ?」
 うなだれて、アタシは冷凍庫に頭だけつっこんだ。
 ひんやりして気持ちいいけど、だけど、アタシのかき氷が遠のいていく。
 遠のいていくというよりも、無残に消え果ててしまった。
 こういうのを、こういう事実を突きつけられるのを、『絶望』というのだろう。


 ――せつなくて 涙が凍る 冷凍庫 絶望の空(そら) 売り切れた空(から)



◆#04 広川正

 「だろ?カラッポなんだよ」
 おじいちゃんにオンナを泣かすようなことはするな。と言われたことがあったけど、俺の人生でこんなにも早くオンナを泣かしてしまうとは思わなかった。
 立ったまま冷凍庫の中に頭をつっこんで、「なんで」「なんで」「なんで」と繰り返し呟いていたが、その声が小さくなっていった。
 静かな山の鳥たちのさえずりに、虚しく響く冷凍庫の運転音。
 俺は、冷凍庫の中で涙を流すオンナを目の前にしたのも、人生で初めてだった。
 ひとしきりぼんやりした顔でちいさな涙を流していたが、やっぱり寒くなったのか、大人しく扉を閉めた。
 なぜか冷凍庫に一礼すると、頭を下げたままゆっくりとこちら側を向いてから、ゆっくりと頭を上げた。
 まっすぐに俺を見上げてくる。
 頭一個分違うから、この女子は身長150センチくらいかな? とか考えていると、彼女は首に下げていた黄色い熊のタオルを握り締め、その熊に呟くように言った。
 「なんで?」
 その質問をこんなに何度も聞くと思わなかった。
 テーマパークで迷子になった子どもみたいに淋しそうに呟く。
 お母さんに置いて行かれた訳でも、おとうさんとはぐれたのでもない。
 かき氷は去年の夏におじいちゃんが売り切ったのだ。
 絶望の淵に立たされたみたいな顔して、けど、その原因が氷なのだ。しかも、200円(税込)のカキ氷。
 女優だったら『なんとか賞』を受賞できる。アメリカの主演女優賞を総なめだ。
 頭の中で赤い荘厳な絨毯の上を歩く彼女を想像した。マイクを向けられて涙ながらにこう答えるのだ。
 ――最高の映画でしたね!おめでとうございます、今のお気持ちを!
 ――『かき氷、なんで無いの?』
 それを想像して思わず笑ってしまった。
 「なんで?って、無いから。氷が」
 「じゃあ、かき氷は?」
 こういう場合、なんと言うんだろう?
 今年の氷はまだ来てなくて、むしろ、今日の夕方現れる。
 なんて言うんだっけ?でも、ここにあった氷は去年の夏に売り切った。
 「売り切れ?」
 彼女はまた力なく肩を落とした。
 そして、優しく冷凍庫にすがるみたいにして、ひざまずくと土間に正座した。
 一礼すると、冷凍庫の扉を開けて頭をつっこんだ。
 さっきは上段だったけど、今度は下段の扉だった。
 初対面の女子が冷凍庫で涙を流す図は滑稽だけど、そこに至るまでの一連の動作が、なんか京都で見た舞妓さんのお辞儀みたいにバカ丁寧で、だけどなんていうか、なんとなく色っぽかった。


◆#05 前島あかね

 なにかしら、これ?
 アタシはみつけた。
 冷凍庫の奥に白い塊の影。
 手を伸ばす。
 冷たい。
 きっと。
 だけど、これって、幻よね。
 氷は無いのだもの。
 きっと。
 夢を見ているのね。
 アタシは左手を伸ばす。
 冷凍庫に長く居すぎたからかしら、ちょっと右側頭部が冷たい。
 「ねぇ?」
 「どうした?」
 彼は冷たい。ぶっきらぼうに返す言葉。アナタっていつもそう。冷凍庫みたいに、ツメタイヒト。
 「これ、なに?」
 このままだと頭の芯までかき氷みたいになりそうだったので頭をあげた。
 開けていた右側の扉を一旦閉めて、左側をあけた。
 カラッポだと思っていたはずの冷凍庫。その下段左側に、そう、幻の!
 「ただのタッパーだろ?」
 「けど、何か入っている気がするの。そう、そこに希望が入っているかもしれないのよ!出していい?」
 彼はひとつうなづいた。
 アタシはゆっくりと手に取った。
 タッパー。
 業務用のプラスチック製容器。
 特徴=ちょっと大きい。重い。カラカラいう音。
 「なにか入ってるよ?」
 「なんだろう?」
 「開けていい?」
 彼は再度頷いた。
 アタシはタッパーのふたを開けた。
 現れたのは、
 「なんで?」
 再びのタッパー。
 業務用のプラスチック製容器。
 特徴:ひとまわり小さい。まだ重い。カラカラいう。
 「開けていい?」
 彼は再度頷いた。
 アタシはタッパーのふたを開けた。
 そして再びのタッパー。
 家庭用のプラスチック製容器。
 特徴:ひとまわり小さい。フタが青い。もう、カラカラ言わない。
 「開けていい?」
 彼は「どうぞ」と頷いた。
 アタシはタッパーのふたを開けた。
 「なんで?マトリョーシカデスカ?」


◆#06 広川正

 「だから、カラッポなんだよ」
 おじいちゃんにオンナを泣かすようなことはするな。と言われたことがあったけど、俺の人生でこんなにも早くオンナを泣かしてしまうとは思わなかった。十分以内に二度も。
 タッパーのフタを見つめて、「なんで」「なんで」「なんで」「……マトリョーシカ」と繰り返し呟いていた。
 俺は、冷凍庫の中で涙を流す女を目の前にしたのも、タッパーに絶望するオンナも人生で初めてだった。
 ひとしきりぼんやりした顔をして、けど少し落ち着いたのか、冷凍庫に頭をつっこんでいたおかげで冷静になったのか、大人しくタッパーのフタを閉めた。
 仰々しく両手を添えてタッパーを冷凍庫の中に片付け、冷凍庫の扉を閉めた。
 そして、一礼すると土間に正座したまま顔を上げた。
 まっすぐに俺を見上げてくる。
 どうすればいいのか困った。
 かき氷を楽しみにして、この暑い中、山道を女の子がひとりで登ってきたんだ。
 かわいそうに思えて、もうひとつの冷蔵庫からガラスのコップに麦茶を入れて、ついでに飲み物用の小さい氷を2つ放り込んで渡した。
 「ありがとう」と呟くように言ってその女の子は一気に飲み干した。
 カラン、と氷が乾いた音を立てた。
 まだ登山するのだろうか?
 時間は午後3時を回っているから、降りてきたのだろうか。
 「まだ、登るの?」
 俺の問いかけに彼女は力なく首を横に振った。
 「もう、登ったの?」
 俺の問いかけに彼女は力なく首を横に振った。
 「山に、何しに来たの?」
 俺の問いかけに彼女は潤んだ瞳で俺を見上げて言った。
 「……かき氷、なんで無いの?」


◆#07 前島あかね

 とりあえずリュックを取りに4畳半の部屋へ戻った。
 だけど、なんだか、力が抜けた。すぐに帰ろうと思ったけど、畳の部屋の入り口に腰掛けて、動けなかった。
 氷の旗がすぐそこで風に吹かれてちいさく揺れている。
 この一週間、楽しみにしていたのに。
 汗をかいて、足元ふらふらで、だけど運動不足のこの身体に染み渡るように広がる……かき氷。
 ぼんやりと土間のほうを見ていた。
 おじいちゃんがかき氷を出してくれた場所。その内側。整理整頓されていて、ごちゃごちゃしてない。
 けど、必要そうなものはだいたいそろってるんだ、って感じ。
 男の子にもらった2杯目の麦茶がおいしかった。
 氷の粒が2つ。もう小さくなっている。
 そう、氷があれば、かき氷ができたのに。。。。。。!!
 あるじゃん!氷!
 男の子は?どこ?
 次の瞬間、大きな段ボール箱を抱えて戻ってきた。
 「よっこらせっと」
 アタシは飲み干したガラスのコップを差し出して言った。
 「ここに、氷、あった」


◆#08 広川正

 八百屋の篠塚のおじさんのバイクが近づいてきた。
 その音に気づいて表に立って待っていた。
 「おう、タダシが店番か」
 ヘルメットをとって、にっこり笑って俺の頭をガシガシ撫でる。
 小学生のころ河川敷でやっていたソフトボールチームでコーチをやってくれていた。
 ヒットを打ってベンチに戻ってきたら必ずこうやって頭を撫でてくれた。
 高校3年になったけど、変わってない。
 「県大会惜しかったな」
 「いやいや、弱小高校にとっては、県大会出場が目標ですよ」
 「全校出れるだろうが」
 篠塚のおじさんが笑った。夏の甲子園、地方予選。県大会のトーナメント形式。県内全ての高校が名を連ねる。
 主将のくじ運がよかったのか悪かったのか、弱小同士の一回戦。
 けれど、両方のピッチャーが総崩れ。17対15の乱打戦。俺たちは、けれど一回戦敗退。
 3年間で最後の試合。両チームの全員がヒットを記録。短い夏の、無駄に長い試合。
 試合の直後観客席へ頭を下げる。おじいちゃんが満足そうに拍手してくれていた。
 『なす』と書かれた段ボール箱をまるごとひとつ受け取った。
 「仕込みは?」
 篠塚のおじさんに尋かれたので、
 「俺がやるんです。今から」
 篠塚のおじさんが妙に感心していた。
 おじさんは去り際に「傷んでるのもあるから」「やけどすんなよ」と二言残しエンジン音を小さめに山を下っていった。
 大きめのダンボール。充分な重さがあった。
 三温糖と果物一種類。
 おばあちゃんに教えてもらったとおりの手順で作る。
 3日前にイチゴでやったけど、簡単だった。
 さぁ、本番だ。
 土間にダンボールをどさっと置いた。
 「よっこらせっと」
 両手をパンパンとたたく。なんていうか儀式みたいなもん。今から始まりますよ。ってそういうやつ。
 ふとすぐ隣に物陰があった。
 人だ。
 っていうか、さっきの女の子だった。
 麦茶を飲み終えたんだろう。ガラスのコップを差し出した。受け取ろうとした瞬間、彼女は言った。
 「ここに、氷、あった」
 麦茶の残り香みたいに、溶けて小さくなった氷。
 「もう一杯飲む?」
 そう尋ねると、縦に返事する。
 冷蔵庫からつくってあった麦茶を注ぐ。そして、ちいさな粒氷を2つ。
 「そ、れ」
 俺は首を横へ振った。希望の粒かもしれないが、事実、この業務用のかき氷マシーンでは、使用できない。
 「ごめんな。」
 「え?」
 俺は思わず彼女の頭を撫でていた。
 「このかき氷の機械、その氷、ちっさすぎて使えないんだ」


◆#09 前島あかね

 「このかき氷の機械、その氷、小さすぎて使えないんだ」
 そんな事実、知りたくなかった。
 『氷』があるのに、『かき氷』が無いなんて。
 男の子に頭を撫でてもらった。
 これじゃあ、幼稚園児が駄々こねてるみたいじゃないか。
 アタシが地球の空気を吸い始めて26年も経ってしまったっていうのに。
 麦茶の氷がどんどん溶けていく。
 もう、帰ろうか。
 コンビニで、アイスクリームだけでも買って帰ろう。
 悔しいから、冷房かけまくって、毛布にくるまって、今夜は鍋焼きうどんにでもしてやろう。
 そんな風に自棄になっていた。
 そのとき、彼は言ったのだ。
 「ねぇ? 甘いものとか好き?」
 ――あたりまえじゃないっすか!ここまでいったい何しに来たと思ってんのさ!


◆#10 広川正

 なで肩の小さなその肩をさらに落としている。
 彼女は麦茶を飲み干して、底に輝くその粒をうらやましそうに見つめていた。
 涙か汗か。黄色いタオルで顔を拭いて、ついでに飲み干したガラスのコップに結露した水気も拭って渡してくれた。
 そして、ぺこりと頭を下げて背中を向けた。
 おとといのおばあちゃんには俺の姿がこんな風に淋しそうに見えてたのかもしれない。

 野球部の大会が終わって、ただのフツーな高校3年生になった。
 宿題と、受験勉強と、減っていく夏休み。
 だけど、暑くてなにも手につかない。
 自転車を走らせて、なんとなくおじいちゃんの家に行った。
 おじいちゃんの家の玄関先で、タクシーから降りたおばあちゃんがいた。手には風呂敷に包まれた荷物。
 「おばあちゃん、」
 呼びかけた先でおばあちゃんが疲れた顔をして、笑顔をつくった。
 「おお、ただし。お茶でも飲んでいきなね」
 「どっか行ってたの?」
 その時初めて聞いた。
 ――おじいちゃんが熱中症でぶっ倒れた。
 昨日の夜、救急車で運ばれて、点滴打って。
 今朝はもう元気になったんだけど、念のため3日間くらい入院する。
 7月の28日には退院できるかもしれないって。
 「たいしたことなかったんだけどね」
 おばあちゃんはそう言った。
 勝手口から入るおばあちゃんについて行って、そのまま台所の脇でふたりで麦茶を飲んで。
 「おじいちゃんがいたら、ねぇ、かき氷でもつくってあげられるのにねぇ。氷蜜もまだだからねぇ」
 俺はうつむいて、カラッポになって溶けていくガラスのコップの氷を見つめていた。
 「なにか甘いものでも食べるかい?」
 その時、おばちゃんは言ってくれたんだ。
 だからって訳じゃ無いけど。

 「ねぇ? 甘いものとか好き?」
 言葉を放り投げた先で、ちいさな背中が立ち止まった。
 くるっと振り返る。
 警戒心旺盛な猫みたいな丸っこい目で俺をにらむ。
 だけど、無言で頷いた。
 「甘いもの、好き?」
 もう一度、無言で頷いた。猫みたい。
 「今から、甘いものつくるんだけど、どう?」
 そこまで言うと、黄色い熊のタオルを首に巻いた猫が、またひとつ頷いた。
 「じゃあ、ちょっと手伝って」
 その猫は眉間にしわを寄せて警戒している。無言なのになんとも表情豊かだ。
 「大丈夫だよ、怖くないから」
 俺がそう言って笑うと、一歩二歩と近づいてきた。
 彼女は言った。
 「なに、するの?」
 俺は答えた。
 「シロップ、つくるんだよ」


◆#11 前島あかね

 幼いとき習ったことがある。――飴玉をもらっても、ついていっちゃだめよ?――って。
 だから、甘いものには気をつけなきゃいけない。
 たとえば、弟には、「クッキーやるからさ、風呂洗ってきて」とか言われる。
 素直にそれに従った。報酬は、クッキー一枚。たった一枚。
 だから、甘いものの罠には気をつけなきゃいけない。だけど、
 「大丈夫だよ、怖くないから」
 なんて言うから、今からつくり始めるその『甘いもの』っていうのが気になってヤバイ。
 「なに、するの?」って訊ねてみたら、彼はさっき持ってきた足元の段ボール箱を指差して、「シロップつくるんだよ」って言った。
 彼は段ボール箱の横にしゃがんで、袋をひとつアタシに手渡した。
 ――三温糖――
 「とりあえず、2キロ。まるっと使って良いって。
  こっちに、果物が2キロ分とちょっとかな?全部使ってぴったりになるって言ってたから、ほらこれ」
 彼はオレンジ色の果物をアタシに見せた。
 夏だというのに、季節はずれの甘そうな色。
 「それって、もしかして?びわ?」
 「そう、正解」
 彼は続けて解説する。
 「冷凍されてたみたいだけど、もうほとんど解凍できてるな、これ。皮をむいて、種を取ってから、傷んでるとこちゃんととって、砂糖で煮込む。どう簡単でしょ?」
 私は頷いて答えた。
 枇杷は傷みやすくて保存に向かない。だけど、6月までの一番ステキな時期から約1ヶ月。
 目の前に並んでいるのが不思議だった。タイムスリップしたみたい。
 「じゃあ、あっちではじめますか?」
 彼はアタシに包丁を渡した。小さめの果物ナイフ。  お砂糖を台所にとりあえず置いておいて、畳の部屋の入り口に二人並んで腰掛けた。
 ボウルを三つ並べて置いて、皮入れ用と、実入れ用と、種入れ用。
 果実の先端から包丁の背中と指で挟んで皮を剥いていく。
 ほとんど解凍されてるものは果実も柔らかくなっていて剥きやすい。
 なんとなくまだ冷凍っぽい感じがしたら、後回し。
 2人とも慣れてない感じで、だけど、甘い香りがひろがっていく。
 「ここのかき氷、シロップ手づくりしてたんだね」
 私が言うと、彼が優しく微笑んだ。


◆#12 広川正

 どっさりとダンボール一箱分。慣れるまで難しそうだ。俺はあんまり料理とかやらないから、包丁は苦手。
 だけど、隣に座った彼女の手付きを見ても、同じような感じっぽかった。だから、ちょっと安心した。
 俺がひとつ皮を剥き終わると、彼女もちょうどひとつ終わる。
 カラン、コロン。種を入れるボールが同じくらいのペースで音を立てる。
 種のボウルのコロン、カラン。が続いていくうちに、だんだん甘い香りが広がっていく。
 のんびりペースなその作業をつづけながら彼女が口をひらいた。
 「ここにかき氷、シロップ手づくりしてたんだね」
 ちょっと嬉しかった。
 俺も、ここに毎年来てるわけじゃないけど、おじいちゃんが一生懸命準備をしているのは知っていた。
 8月に入って登山客が増えるこの山で、おじいちゃんがその人たちのために7月中からゆっくりのんびり準備する。
 そのかき氷を、この女の子は楽しみにして来てくれたんだ。その事実が誇らしかった。
 そして、今年。
 俺が、その準備を手伝えていることが――もちろん、おじいちゃんが元気に退院できるからこそ安心できたんだけど――素直に嬉しかった。
 「ビワのシロップは、おじいちゃんのこだわりだって。あ、それまだ冷凍っぽいヤツ」
 「枇杷使ってたんだね~。ん~いい香り」
 山から吹き降ろしてくる静かな風が心地好かった。
 さっきまで悲しそうな顔をしていた女の子が、嬉しそうに手伝ってくれている。
 「ホントに甘いもの好きなんだね」
 種用ボウルがカラン、コロン。と音を立てる。
 「うん。アタシ、やっぱり、甘いもの好きみたい。
  去年も、一昨年も、その前もその前もだから、えっと、ここ、6年間くらい毎年1回はかき氷食べに来てるかも」
 「6年間?」
 「うん、毎年必ず」
 「家族で来てるとか?」
 「ううん。実家じゃないから、一人暮らしだし。アパート、すぐ近くだからお散歩ついで?って感じでさ」
 種用ボウルがまたひとつ、カラン。と音を立てた。
 ――ひとり暮らしかぁ。6年って、小学生とかじゃね?ん?
 俺の頭が混乱した。
 ん?
 彼女は言った。
 「どうかした?」
 俺は何か、とてつもない勘違いをしているかもしれない。
 「あのさ、ひとつきいていい?」
 「うん」
 「高校生だよね?」
 彼女は首を横に振った。
 「ううん、違うよ。アタシ、社会人。今年で26歳だし」


◆#13 前島あかね

 枇杷がひとつ土間に転がっていった。
 「高校生だよね?」
 そう尋ねられた。だから素直に言った。
 「ううん、違うよ。アタシ、社会人。今年でもう26歳だし」
 彼がアタシの顔をじっと見ている。
 「どうかした?」
 その問いかけに「あ、いえ、何でも無いっす」と急に敬語になった。
 「あ、もしかして?」
 「え?何っすか?」
 「アタシ、同じ年だと思った? キミ、高校生なんだ?」
 彼は額を汗で拭って立ち上がると、転がっていった枇杷を拾って、流し台で洗ってから戻って来た。
 「高校3年っす」
 「いいよ、敬語とか」
 アタシがそう言うと、「いえ、なんかすいません」と言った。心なしか、背筋をちょっと伸ばしている。
 一昨日美容院に行ったとき、前髪を一直線のパッツンにしたのがよくなかったのかもしれない。
 「アタシ、高校生に見える?」
 冗談で言ってみた。
 「すみません、」
 彼は一息入れて、真顔で言った。
 「絶対、年下だと思った」


◆#14 広川正

 「ううん、違うよ。アタシ、社会人。今年でもう26歳だし」
 ワカヅクリとか童顔とかいろいろ言葉はあるみたいだけど、人の年齢がまったくわからなかったのは、17年の人生で初の出来事だった。
 野球部のヤツが3年生になって、2年の女子とツキアッタって話を聴いたことがあった。
 誕生日にデートしてって言われた。とか。
 ツキアッタ記念日にデートした。とか。
 めんどくさいと思ったし、3ヶ月後に――めんどくさいから別れた――とか言ってたから、俺は『年下はめんどくさい』んだと思ってた。
 けど、
 ――あの、かき氷ほしいんですけど
 ――……かき氷、なんで無いの?
 ――ここのかき氷、シロップ手づくりしてたんだね。
 ほんの少し前の記憶が、走馬灯のようによみがえる。
 年上のオンナも、冷凍庫に頭つっこんで泣くんだ……ぜ。
 「どうかした?」
 そう尋ねられて、――26歳になっても冷凍庫に頭つっこむんですね――とは言えないので、「あ、いえ、何でも無いっす」と答えるので精一杯だった。
 「あ、もしかして?」
 「え?何っすか?」
 「アタシ、同じ年だと思った? キミ、高校生なんだ?」
 「高校3年っす」
 とりあえず、尋ねられたことを答えていた。
 「いいよ、敬語とか」
 そう言われたけど、
 「いえ、なんかすいません」
 っていうか、ホントなんかすいません。
 ――あの、かき氷ほしいんですけど
 ――……かき氷、なんで無いの?
 ――ここのかき氷、シロップ手づくりしてたんだね。
 そういうの、年下だと思って微笑ましく見ていたけど、26歳だったんだ。
 逆に、こういうとき、タメ語きいた方がいいんだろうか?
 26歳の社会人の人とかと話をするのも初めてだし、まして、年下だと思っていた人が9つも年上だったなんて。
 次の瞬間、「アタシ、高校生に見える?」って、下から覗き込むようにして言われた。
 しょうがないから、素直に言おう。笑ってくれるかもしれない。
 「すみません、」
 俺は、正直に思ったことを言ってみることにした。
 「絶対、年下だと思った」
 隣に座っていた人の手から、枇杷がひとつ土間に転がっていった。


◆#13  前島あかね

 枇杷がひとつ土間に転がっていった。
  「絶対、年下だと思った」
 ――絶対。がついた。
 なんか、得体の知れないショックを受けた。
 年下に見られることはいいことじゃん。ってまぁまぁよく言われて来たことだし、背が低くて、前髪パッツンならいつも以上に童顔かもしれないけど。
 キミより年下ってことは、高校1年生か2年生……。
 それは、つまり、童顔ってレベルじゃなくて。
 そこまで考えていて、だけど、冷凍庫に頭つっこんで涙していた自分の姿を思い出して、凹んだ。
 そりゃそうだ。社会人のお姉さまのすることじゃない。
 衝動に駆られて後先考えずにいた自分自身の行動を冷静に突きつけられた気がした。
 「……なんか、ごめんね」
 それほど広くない四畳半の入り口と、土間の空間が、冷えていく。
 「……なんか、ごめん、冷凍庫に頭つっこんだりして……アタシ」
 枇杷を剥き終えたら、静かに退散しよう。そうしよう。
 だって、凹みすぎて恥ずかしすぎて、もう、ここになんていられない。


◆#14 広川正

 「なんか、ごめんね」
 彼女はそう言った。
 ガチで凹んで、うつむいて、静かにビワを剥きながら、呟いた。
 「……なんか、ごめん、冷凍庫に頭つっこんだりして……アタシ」
 誤算だった。大誤算。
 俺の予想では、
 ――アハハ、なんで年下よーもー、そんなわけないじゃん!26歳って言ってもね、冷凍庫に頭つっこんじゃうんだよ!アハハハハ!
 くらいの。
 そういうので、お願いしたかった。
 静かになった時間の中で、種を入れるボウルの音が、コロン。カラン。コロン。カラン。
 広辞苑をひいたら見つかるだろうか。
 英語の構文例題150をめくったら、こういう時の例文がのっているだろうか。
 生物の資料集のコラムに……あるわけないか。
 ただただ、凹んで。うつむいて。
 目の前でコロコロ変わる年下みたいな26歳。
 どうしていいのかわからなくて、どうするのが一番いいのかわからなくて。
 だけど、静かに、無言のまま、ボウルのカラン。コロン。が続いていく。
 とうとう最後のひとつが剥き終わった。
 二人でなんとなくボウルと包丁を手分けして流し台まで持っていく。
 彼女はスポンジで包丁を洗ってくれた。
 手を洗って、首にかけていたタオルで拭いて。
 妙に静かで、嫌な空気が流れていく。
 彼女は言った。
 「えっと、なんか、ごめん。じゃあ、アタシ、これで」
 彼女は頭をぺこりと下げる。
 背中を向けて、四畳半のテレビの部屋に向かおうとする。
 どうしたらいい。
 俺は、こういうとき、どうしたらいい。
 必死で頭をめぐらせて。
 だけど、自分の心の中に、ひとつだけ理由がわからない気持ちが陣取っていた。
 ――俺、アンタにまだ、帰って欲しくない。
 俺は右手で、彼女の、


◆#15 前島あかね

 左手首を掴まれた。
 「ごめん」
 彼はそう言って、優しく手をほどく。
 アタシは振り返った。
 「まだ、甘いもの、できてないからさ」
 彼は頭を左手でかきながら、ぶっきらぼうに言った。
 「だから、もうちょい手伝ってよ」
 その直後に一瞬目があった。
 彼もすぐそらしたけど、思わずアタシもそらしていた。
 ――何これ?
 恥ずかしい理由ははっきりしていて、冷凍庫に頭つっこんだり、泣いてしまったりしたアタシ。
 だけど、一瞬、彼と目があった瞬間に、その瞬間だけ、心臓がトクン。っていった。
 「えっと、あと、どんなことするの?」
 「あとは、これと砂糖を水で煮込むだけ」
 彼は流し台の下の扉を開いて、大きめの鍋を取り出した。
 さっきの枇杷をどさっと入れて、流しで軽く洗って水をきると、コンロの上に置いた。
 「さっきの砂糖、どこ置いた?」
 アタシは三温糖の袋を彼に手渡した。
 彼は袋にハサミを入れて、どさっとぜんぶ鍋に入れた。
 冷蔵庫からペットボトルに入った水を取り出して、ドバドバいれていく。
 「これを弱火で、コトコト。OK?」
 彼はガスコンロに火をつける。
 ついでによく使い込んである柄の長い木べらを私に手渡す。
 「ちょっと待ってて」
 そう言うと、どこかから木製の踏み台を持ってきて、ガス台の手前に設置した。
 「どうぞ」
 促されるままアタシはその台に乗って、悔しいかなちょうどいい高さになった鍋を見下ろしながら、ゆっくりかき混ぜた。
 「この踏み台さ、おじいちゃんがつくってくれたんだよ。俺用に」
 彼はそう言った。
 「今日みたいに暑い日にさ、かき氷用のシロップつくるから手伝うか?って。そこらへんに落ちてた木材に、釘打ち込んで、5分くらいでつくってくれてさ」
 15センチくらいの高さの踏み台。
 アタシにもちょうどよくて。なんとなく、嬉しくなった彼の気持ちがわかる気がした。
 「ヤケドすんなよ」
 彼がアタシに優しく言ってくれた。まるでコドモ扱い。だけど、それもいいかもしれない。
 「大丈夫、気をつけるね」
 タオルで汗を拭きながら、湯気のあがってくる鍋をゆっくりかき混ぜる。
 水とお砂糖がゆっくりなじんできて、枇杷の色もちょっとずつ鮮やかになっていく。
 「疲れる前に交代しながらやろう」
 彼の言葉に頷いて答える。
 「大丈夫?」
 なんか、久しぶりに男の子に優しくしてもらってる気がする。
 そのことに、改めて、なんか凹んだ。
 恋愛なんか、まともにしたのいつ以来だ?
 思い出せないくらい、遠い過去のことみたい。
 いつだろう、鍋の中の枇杷をかき混ぜながら、頭の記憶をかき混ぜる。
 就職してからは、今の会社は既婚者ばかりのおっさんばかり。
 短大時代は女子ばっか。友達はアタシとちがってなにやらうまいことカレシつくって遊んでたけど。
 あれ?ってことは、高校2年生の時かなぁ?
 ふと、坊主頭の元彼くんのことを思い出した。元彼っていっても恋人ごっこは3年生に上がる前のほんの半年くらい。
 真っ黒に日焼けして、一度隣の高校との練習試合を見に行ったっけ。
 野球とかよくわかんなかったけど、三塁手、サードとか言ってたっけ。
 5回の裏の守備のとき、アタシに気づいてちいさく手を振ってくれた。
 あ~、なんか恋してたな~。
 それも遠い思い出。
 枇杷がだんだんやわらかく煮詰まっていく。
 思い出の中の彼もどんどん美化されていくわけで。
 あ~、それももう、9年前か。
 そのことに、また改めて、なんか凹んだ。
 「大丈夫?かわろうか?」
 「そうだね、そろそろ」
 そう言って木べらを渡す。
 踏み台に上がったせいで頭の位置が近くなって、さっきより近い距離感で彼と目が合って。
 その瞬間だけ、また心臓がトクン。っていった。


◆#16 広川正

 時計の針はいつの間にか午後4時をまわっていた。
 じっくりと煮込みながら、二人並んで見張り番。
 煮とけてほぐれて。
 「そろそろかな?」って俺が言ったら、「いい香り」って彼女が笑っていた。
 火を止めて、半分ずらして鍋の蓋をして。
 「もうちょっと冷めたら、布巾で漉してできあがり」
 彼女はうん。と頷いた。
 ふと目をやったカウンターの向こうで、氷屋の皆川さんがニヤニヤ笑っていた。
 「よぉ!タダ坊!いちゃいちゃいちゃいちゃしやがって。まぁ、高3にもなりゃ彼女のひとりぐらい、なぁ!」
 「いや、まだ、そんなんじゃ」
 「こっち来て、手伝え、タダ坊」
 皆川さんに呼ばれて表に出る。
 いつの間にか運ばれてきた氷専用のボックス。
 「じいさんから電話で言われた、去年と同じ量な。ほい、運べ運べ」
 皆川さんに言われるがまま特大サイズの業務用氷を冷凍庫に目一杯詰め込む。
 彼女は台所のすみっこで、目をキラキラさせながら見守っている。
 俺がなんとなく頷いたら、彼女もうん。と頷いた。  汗だくになりながら、冷凍庫いっぱいの氷がおさまった。
 「はいよ、ただ坊」
 皆川さんがレンガブロックくらいの氷を流しに置いた。
 「もう、冷凍庫に入らないっすよ」
 皆川さんがニヤニヤ笑いながら俺の背中をバシーンとはたく。
 「ただ坊がひとりで仕込みしてると聞いて来てやったのに、彼女さんと一緒だとはな!」
 「だから、違いますって」
 「そこでだ、これをひとつプレゼントしてやるよ。氷を一個まるっとサービスだ」
 「いいんですか」
 皆川さんはあからさまなくらいに彼女に背を向けて、小声で耳打ちしてくる。
 「タダ坊、いいか? お前が、ここでマシンをばっちり扱えば、あの娘にばっちりエエとこ見せられるじゃねぇか!な!」
 俺が「はい」と返事すると皆川さんが言った。
 「お嬢ちゃん、かき氷、食べるか?」


◆#17 前島あかね

 胸元に『氷』とプリントされた赤いTシャツのおじさんがカウンターの向こうから、彼のことを『タダボウ』と呼んだ。
 「いちゃいちゃいちゃいちゃしやがって。まぁ、高3にもなりゃ彼女のひとりぐらい、なぁ!」
 そう茶化されて、アタシは反射的に踏み台から降りた。
 彼は「いや、まだ、そんなんじゃ」って言いながら「こっち来て手伝え」というおじさんの声に誘われて表に出て行った。
 ――「いや、まだ、そんなんじゃ」
 って?
 学生時代に少女マンガを読み過ぎた所為かもしれない。
 『まだ』っていう言葉が過剰に耳に残ってしまう。
 ――「いや、まだ、そんなんじゃ」
 って。
 こういうとき、主人公の女の子は彼にフられたとか思って傷ついてしまうパターン。
 だけど、話が進んでいくと、恥ずかしくて思わず言ってしまった。みたいなパターン。
 少女マンガ、読まなきゃよかった。
 知らなかったら、というか、そういうのをまだ読んでない高校2年生のアタシだったら、華麗なくらいにスルーできたのに。
 現実は、そんな伏線なんか用意されてないものなのよ、わかってるでしょ?
 なんか、今日、無駄に凹む。
 次の瞬間、業務用冷凍庫のドアがひらく音がした。
 赤いTシャツのおじさんと、彼がバケツリレーみたいにどんどんどんどん押し込んでいく。
 見ると、彼が抱えているのは大きな大きな氷の塊。希望の光。
 彼が、うん。と頷いた。
 ――来たよ。氷。
 アタシも、うん。とうなづいた。
 ――来たね。氷。
 アタシは思わず後ずさりしていた。そんなに広くない台所の空間のすみっこまで退いた。
 神々しい透明な輝きを放つその光に、近づけなかった。
 きっと、夢なんだわ。
 もしかしたら、枇杷を混ぜながら意識を失って、その混濁した状態で夢を見てるのよ。
 ぼんやりと彼らの作業を見ているアタシがそこにいた。
 シロップもできあがって。
 氷もやってきて。
 帰らなくてよかった。
 彼がアタシを引きとめてくれなかったら、この感動は味わえなかったのよね。
 バーン!
 流しの隣のステンレスの作業台の音で意識を引き戻された。
 「これをひとつプレゼントしてやるよ。氷を一個まるっとサービスだ」
 見るとそこに大きなレンガくらいの大きさの氷が輝いている。
 赤Tシャツのおじさんが言った。
 「お嬢ちゃん、かき氷、食べるか?」
 アタシはとうとう、その言葉に巡り逢えた。


◆#18 広川正

 「いいんですか?」
 彼女はそう言った。
 皆川さんがその質問に答える。
 「いいもなにも、シロップ手伝ってくれたんだろ?このタダシ坊と一緒に」
 彼女は頷いた。
 皆川さんが言った。
 「氷屋がサービスできるのは氷くらいしかないが、この暑い日に鍋の前でがんばったんだろ?いいじゃないか。なぁ、タダ坊」
 彼女は「ありがとうございます」と比較的おしとやかに頭を下げた。
 皆川さんが俺に言った。
 「これ、試運転したのか?」
 指差した先に、ビニールのゴミ袋を逆さにかぶせて紐で結ばれた機械があった。
 「いえ、まだっす」
 そう答えると、皆川さんが慣れた手つきで紐をほどいてゴミ袋を引っ張り上げた。
 古めかしい感じの機体に、『ICE SHAVER』というロゴが銀色に輝く。
 「それじゃあ、広川ただし少年!つくってやんな!」
 そう促され、布巾で軽く拭って、氷の塊をセットした。
 皆川さんが教えてくれる。
 彼女は心配そうな目で見守っている。
 ――ここのハンドルで氷を固定して、スタートボタンで回るから――
 氷のセットが完了した。
 さっき使った枇杷の皮を入れていたボウルを、一度洗って、セット完了。
 3人が見守る中で、いよいよ、俺はボタンを押した。


◆#19 前島あかね

 少しだけ錆びた足元。
 水色の塗装がされたレトロな風合い。
 大きなシルバーのハンドル。
 そして、『ICE SHAVER』というレトロなフォントで描かれた銀色の文字。
 とうとう、そのときが来たのです。
 「ヒロカワタダシ少年!つくってやんな!」
 その声に背中を押されるように、彼は布巾を固く絞って、丁寧に拭っていく。
 氷を固定するプレス。
 氷を置く台。
 そして、ギラリと光る強そうな刃。
 氷屋さんのおじさんにレクチャーを受けながら、慎重に氷をセッティングしていく。
 プレスの幅がだんだん小さくなっていく。
 アタシは胸の鼓動を必死に抑えていた。
 彼ならきっと、できるはず。がんばって!かき氷!
 洗ったボウルをその氷の下にセッティングして。
 いよいよ、「OKです。いきます」と告げた。
 青いボタンに指をかける。
 その指に、彼がちからを込めた。
 ――。
 「あれ?皆川さん、ぜんぜん動かないっすよ」


◆#20 広川正

 うんとも。
 すんとも。
 っていうのは、こういうことなんだと学びました。
 青いボタンを押しても、まったく。
 カスッっていう空気音みたいなのがかすかにするだけで、セッティングしたボウルに3滴溶けた水が落ちた。
 彼女に目をやった。
 瞬きすらしないで、固まっている。
 さっきの感じだと、この状態で気絶したのかもしれない。
 皆川さんが言った。
 「バーカ、コンセント入ってねぇじゃないか」


◆#21 前島あかね

 気絶するかと思った。
 なんか、青いボタンを押された瞬間スイッチが入ったのは、アタシの緊急停止装置だったんじゃないかって思うくらい。
 「あれ?皆川さん、ぜんぜん動かないっすよ」
 とか、彼が言ってるのもかすかに聞こえるくらいで、むしろ、鳥のさえずりとか、冷凍庫のぶいーんっていう音とか、小川のせせらぎの音とかすばらしく5.1chサラウンドで聞こえてきて、一瞬、あ、アタシ浄土に行けるかも。って思った。氷みたいに澄んだ心のまま、きっと、今なら、浄土に行ける。かき氷が食べられないとか、そんな問題は些細なこと。アタシはきっと菩薩様みたいな清い心で天に召されるの。
 けど、アタシはまだまだ悟りの境地には至っていなかった。
 「バーカ、コンセント入ってねぇじゃないか」のおじさんの一言で引き戻された。
 とてもじゃないけど、悔いが残って地縛霊になりそう。
 彼が作業台のすぐそばのコンセントにプラグを差し込んで、再び準備完了。
 彼が青いスイッチに指を、
 青いボタンに指をかける。
 その指に、彼がちからを込めた。
 ――。
 「あれ?皆川さん、やっぱりぜんぜん動かないっすよ」
 氷の塊に夕焼けの淡い光が差し込んだ。
 カラスがどこかで、アホー。って鳴いた。


◆#22 広川正

 なにか大事なことを忘れてる気がした。
 皆川さんがちょっとあわてて、「本気で壊れたかな?」とか言ってる。
 あ!思い出した。
 試しに台所の照明のスイッチを押した。
 ――点かない。
 やっぱりそうだ。4畳半の部屋のテレビの上。
 俺は急いで向かった。
 やっぱりこれだ。ブレーカーがひとつ落ちてる。
 昨日ここに来て、『テレビ部屋』と『冷凍庫』『トイレ』ってシールが貼ってある部分は使えるようにした。
 試しにブレーカーを上げてみる。
 台所から皆川さんの声がした。
 「でかした、タダ坊、何?ブレーカーだったか?」
 下駄を履いて、機械の前に戻る。
 「はい、なんか、ブレーカーあがってなかった。
 それを聞いて安心したのか、彼女がため息をついた。
 かき氷機に、赤いランプが灯った。
 皆川さんが言った。
 「ちょっと動かしてみ?」
 俺は再び青いボタンに指をかける。
 その指に、ちからを込めた。


◆#23 前島あかね

 シャリシャリいってる。
 ガリガリ音がする。
 すごい!すごいよ!氷の塊が踊ってるよ。
 夕焼けに照らされて、ほんのり恥ずかしそうにオレンジ色した氷がダンスしてるよ!
 彼は一度ストップボタンを押して、氷屋のおじさんに「できました」って言った。
 氷屋のおじさんは、安心した顔して、「最初のは掃除みたいなもんだから、捨ててもう一回つくりなおせ、な」と言い残して立ち去った。
 二人でおじさんを見送った。
 夕焼けに照らされて、登山道とは別の方向へ山を降りていく軽トラック。なんかかっこよかった。
 いよいよ、二人でかき氷をつくる。
 彼がちょっと緊張した感じでスイッチに手をかけた。
 電動モーターの音がして、氷の塊が回り始めた。
 豪快で、優しい音。
 キラキラ舞うようにかき氷が天使の羽みたいにふわふわ降りてくる。
 銀色のボウルがちょっとずつ冷えて白く結露していく。
 大盛り山盛り特別サービス級のモリモリ。
 「こんな感じでしょ?」
 彼はイタズラっ子の目をして笑った。
 アタシは頷いた。
 いつもの白い発泡スチロールの器じゃなくて、今日はさっきまで使ってた銀色のボウル。
 引き出しからスプーンをひとつ取り出して、彼が山盛りにすくった。
 「はい、どうぞ」
 シロップをかけないで、そのままの氷。
 なんとなく、儀式みたいな、そんな感じ。
 だけど、とっても贅沢に思えた。
 アタシはツバメのひな鳥みたいに口をあけてほおばった。
 口の中にひんやり冷たい氷が広がる。
 すぐに溶けてなくなってしまうけど、柔らかくて優しい感じ。
 たったひとくち。
 だけど、彼もきっと同じ気持ち。
 今のアタシたちは世界でいちばんのしあわせ者。
 彼は言った。
 「おいしいね」
 アタシは頷いて答えた。


◆#24 広川正

 やっとかき氷をプレゼントできた。
 シロップを漉す作業が残ってる。
 そうだ、漉す前のシロップでもいいから、かけてあげよう。
 手に持ったかき氷の器に、お鍋からお玉で軽~くかけてみた。
 枇杷の粒が氷の上に星空みたいにひろがった。
 まだちょっとぬるい温度のせいかかき氷がどんどん溶けていく。
 「ヤバイヤバイ、はやくはやく」
 そう急かすと、彼女は急いで口をあけた。
 シロップのたっぷりかかったかき氷。夢中でほおばる。
 「ん~~~~!」と唸って、彼女は言った。
 「スプーンかして」
 俺がスプーンを手渡すと、シロップをたっぷりすくって、そこからさらに溶けていないかき氷も山盛りに拾い上げた。
 「はい、あーーん」
 彼女に促されるまま今度は俺がつばめのひなみたいになった。
 口の中にひんやりが広がる。追いかけてくるビワの甘さと柔らかい香り。
 おじいちゃんの味に一歩近づいた。完璧じゃないけど、ちゃんと昨年のと同じ味がする。
 ふたりで、ちょっとお行儀わるいけど、台所で立ったまま、山盛りいっぱいのかき氷を食べきった。
 途中で気づいて、小さいほうの冷蔵庫にある冷凍室に残りの大きなブロックを大切にしまった。
 鍋いっぱいのビワシロップをゆっくり漉しながら、シロップ専用のガラスの容器に移していく。
 この作業は、とてもじゃないけど、ひとりではできなかった。
 重い鍋を俺が抱えて、彼女が布巾をずれないように支えてくれた。
 幼い頃見た、おじいちゃんとおばあちゃんみたいだ。って思った。


◆#25 前島あかね

 ゆっくりゆっくり怯えてるみたいな慎重さで、シロップを漉しながら移していく。
 彼が教えてくれた。
 「幼いとき、よく遊びに来ててさ。ここ。
  シロップを鍋から移すとき、こうやって、おじいちゃんとおばあちゃんが一緒にやっててさ。
  こぼさないように慎重にさ。なんか、そういうのに、最近憧れてるっつーか」
 そこで彼が一度とめた。
 アタシは布巾で受け止めたビワの実をボウルに避けた。
 再び布巾を乗せて、彼は慎重に鍋を傾ける。
 「おととい、おじいちゃん家に行ったらさ、おじいちゃん救急車で病院運ばれててさ」
 アタシがびっくりして見上げると、彼は続けた。
 「元気元気。今日か明日?退院する。軽い熱中症だったみたいでさ。
  気分悪くなってきたからって、おばあちゃんが救急車呼んでさ。大丈夫だったからよかったんだけど、おばあちゃん疲れててさ。あんな顔してるの初めて見た」
 アタシはもう一度布巾の枇杷の実をボウルに避けた。
 「俺さ、ここで食べるかき氷、やっぱ好きなんだよ。
  おじいちゃんが一生懸命つくった手づくりシロップの、この味、やっぱ好きなんだよ。
  今日、やっと気づいた。
  中学と高校と、野球ばっかやっててさ、あんまりここ登れなかったけど、だけど、野球終わって、ここ登ってきて、シロップつくって。氷運んで。なんか、よかったって思った」
 そう話して聞かせてくれた彼の表情は、氷みたいに純粋で、枇杷のシロップみたいに優しかった。
 「このシロップのかき氷、おじいちゃんに食べてもらわなきゃね」
 アタシがそう言うと、彼は力強く頷いた。
 アタシは鍋に残った分をかき集めてぎゅーっとしぼった。
 掌いっぱいに枇杷の甘い香りが広がる。
 布巾を開いて、ほどけた枇杷の実。アタシはひとくちつまみ食い。
 彼の口にもひとかけら持って行くと笑顔でひとくちつまみ食い。
 『ん~~、甘くておいしい!』
 二人一緒にニコニコ笑った。
 最高にしあわせなかき氷食べて、シロップの枇杷もつまみ食いして。
 夕焼け色したシロップの瓶を見ながら、彼はアタシに尋ねた。
 「甘いもの、好き?」
 アタシは言った。
 「うん、だーい好き」


◆#26 広川正

 ボウルとか鍋とか、洗い物まで手伝ってくれた。
 夕日はとっくに沈んでしまって、小屋のまわりは真っ暗だった。
 昨日と同じように戸締りをして、鍵をかけて。
 だけど、今日は一緒に帰る人が居る。
 「今日はありがと」
 「ううん。最高の一日だったかも」
 彼女は笑顔でそう言ってくれた。
 おばあちゃんに渡された懐中電灯を点けて、足元を照らしながら歩く。
 「これで、明日から、ちゃんとかき氷できるよ」
 「じゃあ、明日来たら、ちゃんとかき氷出してもらえるんだね」
 彼女はそう言って笑った。
 「うん。明日はもう冷凍庫に頭つっこんで泣けないけどね」
 俺が冗談めかしてそう言うと、彼女は妙にマジメに「ごめん」って言った。
 「凹む?」
 「うん、なんか、社会人として、っていうか、なんかなんでそういうことしちゃったんだろう?って」
 「自己嫌悪?」
 「うん。なんかそんな感じ」
 そう言って、彼女は立ち止まるとぺこりと頭をさげた。
 「ご迷惑おかけしました」
 「こういうとき、なんて言ったらいいんだろうね?」
 月明かりの下で彼女は不思議そうな顔をした。
 「そんなことないよ。とか言っても、自己嫌悪には変わりないでしょ?年下の、高校生のガキに言われてもさ」
 彼女はにっこり笑った。
 「マジメなんだね」
 彼女はそう言った。
 そして、なぜか。
 「ありがと。そういうのが、一番うれしいのかも」
 そう言って微笑んだ。


◆#27 前島あかね

 彼の心配そうな表情が月明かりではっきり見えた。
 アタシの自己嫌悪は、もう癖みたいなもので。
 仕事しててもなにかとミスするし、ちょっとしたことですぐ凹む。
 そういう心の負の連鎖みたいなのを断ち切る手段を持ってない。
 ぐるぐるぐるぐる考えて、ずるずるずるずる凹んでいく。そういう自分が、また、嫌い。
 だから、こんなアタシのことを考えて、考えて、考えて。
 彼は素直に、「そんなことないよ。とか言っても、自己嫌悪には変わりないでしょ?年下の、高校生のガキに言われてもさ」って困って言った。
 マジメだと思った。まっすぐ、ちゃんと生きてるんだなって思った。
 「マジメなんだね」
 アタシの言葉に、だけど、不思議な表情をしていた。
 「ありがと。そういうのが、一番うれしいのかも」
 そう言ったアタシの言葉に、まだ、不思議そうな顔をしていた。
 純粋で、氷みたいに、透明。すっごくうらやましい。
 高校生の時のアタシは、やっぱり今と同じ。
 ぐるぐるぐるぐる、ずるずるずるずる。ちっともかわってない。
 「アタシさ、ずーーーっと、後ろ向きでさ。
  ちょっとしたことなんだよ、会社でコピーを裏表違うのコピーしちゃったりとか。
  友達には『そんなのやりなおせばいいことじゃん』とかって言われるんだけど、だけど、その失敗したことをずーーーとずーーーと考えててさ。
 友達にね、『あかねはさー』、あ、アタシ『あかね』っていうんだけど、
  『あかねはさー、後ろ向いてそのまま歩ってた方が早いんじゃない?』とか、冗談だけど、そうやって言われちゃうくらい」
 一緒に歩きながら、彼は頷いて、言った。
 「そういう自分がキライなんでしょ?」
 ドキリとした。言い当てられた気がして。彼はにっこり微笑んでくれた。
 「俺も、ある。野球の試合でさ、サード守ってるから。あ、三塁ね。三塁手。
  3番とか4番とかだとけっこう早い打球来るし、後輩には『よく捕れますよね』とかそういうのも何個かあったりするけど。
  けど、内心、ぶっちゃけびびってびびってヤバイんっすよ。
  めっちゃ早いライナーがズバーンってこっち向かってくるし、スクイズ仕掛けられたりとか。
  で、やっぱ、エラーするじゃないですか。
  ポロッてやっちゃったり、最悪なのはトンネルして、ランニングホームランにされたりとか。マジでもう逃げたくなるんっすよ。試合中なのに。
  どんどん試合は進むのに、立ち直れないっていうか、バッターボックス立ってんのに、エラーしたこと考えてたりして」
 彼はふと立ち止まって、空を見上げて、続けた。
 「あるとき、言われたんっすよ。おじいちゃんに」
 「なんて?」
 「失敗っていうのは、赤ちゃんのときからずっとしてきてるんだ。
  上手く空気が吸えないから、おぎゃーおぎゃーって泣きながら一生懸命息をするんだ。
  そしたら、タダシ、今、息吸えてるだろ?
  上手におしっこできないから、オシメしてもらってたろ?
  今、夜中のトイレも自分で行けるだろ? そういうのを、じいちゃんはぜーんぶ見てきた。
  タダシがちょっとずつちょっとずつ、自分でできることを増やしてきた。
  今じゃあ、あーんな金属だかなんだかわからん棒振り回して、あーんなちっせぇボールにぶつけて遊んでんだろ?
  失敗ってのはな、失敗したときに、自分が一歩前に進もうとしてるってわかるんだ。
  失敗しないやつがいるか? それはな、タダシの見えないところで、いっぱい失敗してんだ。
  先輩も、コーチも、監督も、プロ野球の選手もみーんな」
 彼が首に下げてたタオルをアタシに渡した。
 立ち止まって空を見上げてる彼の横顔を見てたはずだったのに、アタシはそのとき、アタシが泣いていることを知った。
 「俺、それ聞いてから、かも。自分がミスったときに、今の自分が何を考えたらいいのか。わかった気がした」
 「タダシくんってさ、充分すぎるくらいオトナじゃん」
 そう言ったアタシの頭を優しく撫でてくれた。
 なんだか、涙が止まらなかった。
 「あかねさん、泣きたいときは、目一杯泣いたら良いんだって。おばあちゃんが言ってた」
 アタシはずいぶんと泣いていた。
 黄色いタオルを借りて、涙が止まるまで、彼の胸に頭を寄せて。
 アタシはずいぶんとコドモだった。そんな自分がキライって思いながら、また、涙があふれてきた。
 タダシくんの黄色いタオルは枇杷の優しくて甘い香りがした。


◆#28 広川正

 あかねさんは「ごめんね」「ありがと」って繰り返し呟きながらしばらく泣いていた。
 どれくらいの時間そうしていたかわかんないけど、真っ暗闇の森の中で、あかねさんの頭を撫でてあげた。
 「タダシくんってさ、充分すぎるくらいオトナじゃん」
 そう言われたけど、だけど、俺はまだ、もっとしんどいそういうことに出逢ってないのかもしれない。
 自分がしんどいと思ったことは、この3年間で野球のことだけだった気がするから。
 だから、26歳のあかねさんが、こんなにも泣いてしまうくらいしんどい時間を過ごしてたんだと思うとやりきれなかった。
 大切な家族と離れて、一人でアパートに住んで、仕事でミスして、そのことを悔やんで、落ち込んで、凹んで。
 そういう自分を、また嫌いになって。
 夏休みなんかじゃない休みの日に、おじいちゃんのかき氷を食べるためだけに山に登って。すっごく楽しみにして。
 「そりゃ、冷凍庫で泣きたくなるよね」
 なんか、わかってないんだと思うけど、理解したかった。
 「ごめん、茶化してないんだけど、冷凍庫で泣いてた理由。ごめん、あのとき、俺、ぜんぜんわかってなかった」


◆#29 前島あかね

 「そーゆーこと言うから、涙止まんなくなるんだって」
 なんか、ここ6年分くらい泣いてる気がした。家に帰って独りで泣いたり、よくやってることだけど。
 こうやって、泣けてることに感謝してる気持ちなんて初めてで。
 「お姉さんはね!弱いの。弱っちぃの。だから、参考になんないよ。
  たぶんね、タダシくんならひょいっと飛び越えちゃう低っくい石に、アタシ勝手に躓いてんだ」
 アタシは精一杯強がって、強がって強がって、彼から離れた。
 「ごめん、泣かせてくれて、ありがと」
 アタシは精一杯強がって、彼にタオルを返した。
 彼は受けとって、「ごめん、わかったような口きいて」そう自分を戒めた。
 「タダシくんは、アタシのことわかってるよ。だいたい合ってる。
  アタシ、泣きたかったんだ。泣けなかったから。泣きたかったんだよ」
 深呼吸した。アタシは生まれて26年も経ったのに、赤ん坊みたいに、まだ、上手く空気吸えてない。
 「タダシくんに、逢えてよかった」
 彼は言った。
 「俺も、あかねさんに逢えてよかった」
 駄目だ、アタシ、彼の優しさに、勘違いしてしまいそうだ。


◆#30 広川正

 あかねさんが「行こう、暗くなっちゃってる。タダシくんの家族が心配するよ」そう言ったから歩き出した。
 だけど、まだ涙が止まりそうになかったから、手をつないで歩いた。
 こけそうになって、掌に力を込めて、あふれて来る涙に困って、あかねさんは俺の手をぎゅっと握った。
 登山道が終わって、アスファルトの道になって。
 だけど、お互い手を離そうとしなかった。
 なんか、すっげぇ心配で。
 だけど、俺自身も、繋いだ手に安心してる。
 だけど、「あのさぁ、メールアドレス、交換しようよ」
 俺がそう言うと、あかねさんは立ち止まり、静かに手を離して、首を横に振った。
 「アタシ、たぶん、それやっちゃうと駄目だと思う」
 なんか、すっげぇ心配で。
 だけど、俺自身も、彼女に会えなくなるのは、不安だった。
 あかねさんは言った。
 「アタシ、本気で好きになっちゃうと思う」
 街灯の小さな明かりの下で、彼女の目は本気だった。
 あかねさんの目の中に俺が映っている。
 俺の気持ちは、心の中のこの気持ちは、何なんだ。
 「俺も、好きになると思う、あかねさんのこと」
 あかねさんは首を横に振った。
 「アタシ、26歳なんだ。タダシくんの、9歳上なんだ? そういうのって、たぶん無理だと思う」
 「俺が、あかねさんを好きになっちゃ駄目ってこと?」
 あかねさんは首を横に振った。
 「今は、まだ、この気持ちあやふやにできるから。
  だけど、アタシが本気で好きになっちゃったら、タダシくんの未来とか可能性とか、台無しにしちゃうんだ」
 あかねさんは首を横に振った。
 「そういうもんなの?」
 俺の質問に、あかねさんはひとつちいさく頷いた。
 「やっぱり、今の俺じゃ、わかってないことばっかりってこと?」
 あかねさんはもうひとつ頷いた。
 「じゃあ、あかねさんに従うよ。高校生の俺じゃ、わかってないこと多すぎる」
 あかねさんは頷いて、言った。
 「ひとつ、今のアタシの気持ち。伝えていい?」
 あかねさんは真っ赤に腫らした目を、だけど真直ぐに笑顔をつくって言った。
 「アタシね、タダシくんのこと、大好きなんだ。すっごく大好きになっちゃったんだと思う。
  だから、タダシくんの未来とか可能性とか、夢とか希望とか、そういうキラキラ輝いてるのを奪いたくない。
  タダシくんはね、今のタダシくんは、まっさらな氷の塊だから。
  アタシにはそんな綺麗な氷、汚したくないから。大好きになった人だから、だから、遠くで応援してる。
  だから、目一杯しあわせになって欲しいの」
 俺は、自分の無力さを知った。
 あかねさんの涙の理由を、温室育ちの、高校生の俺にはまだ、わかりっこないんだ。
 俺は、その事実を学んだ。
 「あかねさん、また逢えるかな?」
 あかねさんは言った。精一杯の笑顔をつくって。
 「もし、逢えたら、たぶん、そのときまた友達になろう?」

 俺たちは交差点でそれぞれの家に向かって別れた。
 満月は氷みたいに蒼白く輝いていて、だけど、静かな夜空に浮かんでいた。




◆#epilogue 前島あかね

 とびきりのデザートってやつ。
 『氷』って描いてある小さな旗。あれを初めて作った人は天才だと思う。
 ここからだと風ではためいて『水』だか『氷』だか判別はできないけど、あのカラーリングはアタシにとっては懐かしい恋の色。
 白馬の王子様だってかないやしない。
 もし、白馬の王子様があの旗を持って迎えに来てくれたら、28歳のアタシにわずかに残された乙女心はずいぶん揺らいでしまうかもしれない。
 八重野峠のゆるやかな登山道。くねくねとした土の道に、生い茂る緑。
 ちょっとした木陰に、7月の終わりだというのに、まだ今年も紫陽花がかわいらしい淡い紫色の花をつける。
 まだつぼみもあるから、8月に入ってもこの場所なら昨年と同じように花を咲かせてくれるかもしれない。
 登山道を歩くこと約30分。厳密に言うと45分。見えてきた、峠の中腹にあるちいさな茶屋。
 最後の上り坂をクリアして姿を現したのは、かやぶき屋根の小さな古屋と、その横に、
 ――休憩にどうぞ――
 そう小さな板切れを立ててあるだけの茶屋。
 外には長椅子が3個。端っこがところどころ日に焼けて色あせている赤い布をふんわりとかけてある。
 「ふぅーーーー、つかれたーーーー」 
 赤い布の長椅子に腰を下ろす。リュックを置いて、帽子もはずす。
 山から吹き降ろす風が心地好く駆け抜けた。
 運動不足の足の裏とふくらはぎがジンジンと疲労を訴える。
 「いいじゃない。このためにここまで歩いたんだもの」
 見上げた小屋の壁に、手書きの『札(ふだ)』。しかも、油性マジックで手書き。
 メニューはふたつ。
 ――おしるこ(冬)――
 ――かき氷(夏)――
 登山道を約1時間。厳密に言うと55分。
 たどり着いた場所。ここのかき氷が食べたくてやってきた。
 「おにいさーん、かき氷ください」
 「はいよっ、特別に山盛りね」
 見慣れた顔の店主が今年も笑顔でかき氷をつくってる。
 今年もちゃんとアタシの大好きな優しくて甘い香りがした。




   -end-



       『 夏の香りに想いをよせて 』

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